マインド























子どものころ、自分は大きくなったらどんな大人になると思っていただろう。


こういう大人になりたいと、こよなく憧れたロールモデルはいただろうか。




子供時代には万能感がある。


それは実際、お医者さんにも野球選手にも、スチュワーデスにもファッションモデルにも、
総理大臣や宇宙飛行士にだってなれる、
確かな可能性だったのだ。




けれど人は、いつの間にかその力を手放す。


手放せないと生きてはいけないから。


手放すことが、大人になることなのだと気づいたのは、30を過ぎてからだったろうか。

今の若い人は、もっと早くにこのことを悟っているのかもしれない。




「荒ぶる、荒ぶる気持ちを抑えて」




アンチエイジングという言葉を聞くようになって久しい。


男も女も、昔からずっと若さを欲しがっている。


けれどその理由(ワケ)は、以前と今では随分違ってきているような気がする。


大人だけれどオトナになりたくない大人たちが、
本当に大人にならずにいられる方法をみつけたような気がして、
自分の実際に、大手を振って抵抗することが出来るようになった、
そんな世の中が今なのではあるまいか。


もちろん、50にもなろうというのにこんな絵空ごとに血道を上げたままの役者風情は、
その最たるものなのだけれど。


今の子どもたちは、お父さんみたいな大人になりたい、なんて、
思うんだろうか。


今の世の中に、本当の大人なんて、いるんだろうか。




「荒ぶる、荒ぶる気持ちを抑えて」




この作品の初演は、1988年。


巷では、「24時間、戦えますか」というキャッチコピーが大流行し、
軍歌のような CM ソングに煽られながら、
サラリーマンがビジネスマンへと変貌したバブルの絶頂期の中で生まれた。




イケイケドンドンの世の中から、しかしこの主人公、‘父’は、たぶんコボレていたのだ。


頑張れば頑張るほど、歯を食いしばって何かを封じてきた企業戦士だったのだ。




大人になるとは、我慢が出来ること。


我慢は戦士の最低最大のスキルなのだから。




「荒ぶる、荒ぶる気持ちを抑えて、私はただ、その場に立ち尽くすだけだった」




‘父’は4つに分裂していく。




それから四半世紀が過ぎて、
2013年の父は、母は、男は、女は、この物語に何を見るだろう。


大人になるって、どういうことなのか、
2013年のあなたの答えが、なつかしい磨りガラスの引き戸の向こうから、
覗いているかもしれない。






   劇団離風霊船 2013年5月公演 『マインド 2013』
   作・演出 大橋泰彦
   5月16日(木)〜22日(日) 下北沢 ザ・スズナリ
   
   ご予約・公演情報はこちら

SUBJECTION〜閉ざされて  後れ文その2






























つらいことは忘れてしまったほうがいいと言う。


それは…本当の本当は、
言ったその人が希望していることなんじゃないのかな。




忘れられずに苦しんでいる姿を見るのがつらいから、
気楽にしていてくれないと、自分も進んでいけないから。


それは愛情からだったとしても。




愛している人があたたかく満たされていたら、自分もしあわせだから、
愛している人の不仕合わせを拭ってあげられたら、
自分も一緒に生きてると信じられるから、


だから、
早く忘れてくれないかなと、忘れたほうがいいよとは、
同じ言葉なんじゃないだろうか。




それが禍々しい過去であった場合は、尚更に。






だけど、そのことを忘れるか、忘れないか、忘れられるか忘れられないかは、
自分が決めることだよね。


周りのリクエストに応えて選ぶことでは、本当はないのよね。
応えたくなる動機も、思いやりとかやさしさとかの、イコール愛している、からではあっても。






確かに心にまとわりつく曇りは早く手放したほうが楽にはなれるのだけれど、
手放したくても手放せないことはたくさんあって、
そんなときに、「早く忘れることだ」なんて言われると、
なんだかその人との距離を感じて、
自分は、ああ結局独りなんだよな、とか、ちゃんと立っていられているのかなとか、
振り返ってみたくなる。




そうやって確かめて、やっぱり忘れる前にすることがある、
と思えば、
一歩を踏み出さないと、ダメなんだと思うようになる。




そうしてその旅には、傍(かたえ)は要らないことが解かる。
これは自分の問題だから、独りだけのチカラで、ちゃんと越えていきたい。


そう、
思う。














9歳で誘拐されて、19歳で解放されるまでの9年2ヶ月、
犯人と二人きりで生きたこの歳月を、彼女を取り戻した人々は封印しようとする。


二度とその禍々しさに引き戻されないように。
ここからは、清冽に輝く、透きとおった光だけを浴びていってくれるように。








けれど、それは、彼女にとっては悲しみと背中合わせの、
外の世界の祈りなのかもしれない。


人が躍起になって封じようとするその過去は、紛れもなく自分が生きた時間なのだから。


あの9年を無かったことにしたら、今ここにいる自分は何なのだ?
この先どんなに人から愛されても、いったいそれはこの自分なのか、本当に愛されているのか、
そんなことさえ分からなくなってしまう。








彼女の名は春奈。


2000年に新潟で発覚した少女監禁事件をモチーフに、大橋が生み出した、
やさしくはかなげな、しかし不屈のヒロインだ。


作家はこの彼女に何を託そうとしたのか。








2005年の初演の際も、私は母親役を演じたが、
正直言ってそのときには、この物語の軸がよく解からなかった。


春奈は最後に、自分を誘拐して閉じ込めた犯人と対峙するのだが、
そのとき彼女は「あなたを愛していた」と言うのだ。








これが女の生理ではどうにも腑に落ちず、かといって、
すでに収監されている犯人に対しての最も熾烈な復讐の台詞であることは間違いがないため、
どう解釈すればよいものか、自分にとっては未消化のまま残っていた作品だったのだ。


ただの色恋沙汰に帰結する物語であるはずはないのだが…
自分の中では納得を見出せないまま、演者と演出の作るシーンを見守った初演だった。








そこから7年を置いた今回の再演までに、この国には大きな惨禍が降りかかった。


言わずもがなの、
東日本大震災福島第一原発放射能漏れ事故だ。








すべての根底を揺るがされたこの体験を経て、いまいちどこの作品と向き合ったとき、
私は、抱えていた腑に落ちなさが氷解するのを感じていた。








いちど事に出くわしたら、そこからはもう昨日までとは違う。
決して元に戻すことはできない。


だったら、起きたこれを、なんとかより善き方向に転化できないものか。








1年を経て、私の気持ちはその一点に向かっていた。
だってこのままあきらめるなんてありえないから。








仕方がない。
あきらめが肝心。


冗談じゃない。
何をどう選ぼうとも、身体はその日までは続いていく。
その日がいつなのかも分からないなら、「この日々の中」でどう生きるか、
在るのはそれのみだろう。


自分の人生に泣き寝入りなんてしたくない。
これを経たからこそ、もっと善い未来を本気で希求するのだ。








この眼のままにこのホンを読んだとき、
「愛していた」の奥に横たわっている春奈の想いに、気づけたのだ。








それこそ本当に命を懸けて生き抜いたあの日々。
閉ざされた部屋のベッドの上から、一歩も出ることを許されなかった支配の毎日であっても、
彼女は彼女を失わなかった。
自分の意思でその時間を紡ぐことを選び、一度も隷属に落ちたことはなかった。


生きる。
生き抜く。


その魂のほとばしるような渇望を知っているのは、ほかならぬ自分だけなのだから。


自分以外に、あの9歳の、15歳の、19歳の自分を認めて愛してやれる者が、
この世のどこにいよう。








愛していた。


ワタシハ アノ9ネンカン ココロノソコカラ アイシテイタ。
ワタシヲ。
9ネン2カゲツノ ワタシノ ジカンヲ。








誰が認めなくてもいい、わたしだけは、あなたのあの日々を、あの日々のあなたを、
愛してあげるからね。








そう思えたとき、彼女は、
一個の人間という枠を超えた、誰もついていけないほどの大きな生命の塊になった。


生きた証しと、生まれてきた意味をたずさえた、代えの利かないただ独りの存在として、
すっくりと立ち上がることができたのだ。






燦燦ときらめくまぶしい海からの陽光を、その一身に浴びながら。






幼い自分に命懸けの日々をもたらした、死ぬほど憎い犯人にさえも、
愛していたと言える彼女になって。








生きるとは、生きる意志とは、なんと力強いものか。








傍を伴わない彼女の心の旅は、犯人に一矢を報いるためのものではない。
9年の間にあるはずだったきらめくような青春を創作して、「体験」し直していく、
それは、犯人に語ることで実現されるのだ。


自分の9年間のただ一人の目撃者だから。
それを聞かせることで、
彼女のもっとも美しかった十代は、波光にきらめきながら散華していくのだ。








たとえ人が忌み嫌う時間であったとしても、それが「自分の物語」。


だから彼女はすべてを愛する。
今と、これまでと、これからの、すべてを。








支配は許しても、隷属には落ちない。
たった9歳の女の子が、自分の力だけで育てていった、ひとの真実の輝き。








迷いや憤りで胸がふさがれそうになる現在(いま)を生きることに、
負けないものをくれないだろうか。


自分を愛する愛し方を、春奈は贈ってくれはしなかっただろうか。


たとえ世界が閉ざされようと、自分の物語の扉を開き続ける。


命とは、心のことなのだと。












あきらめる、とは仏教用語の本来では「明ら見る」という意味なのだそうだ。


この世に生れ落ち、生かされて、宇宙の塵のひとつとして真理の中で生きる、
その因果の在りのままを明らかに見て、
この先の自分の命にどう活かしていくかを見つけること。


それが本当の、諦観(たいかん)なのだという。








春奈はあきらめたのだ。


自分の物語を生きることを、自分で物語を創ることを、
「明らめ」たのだ。


だから私も書けたのだ。
願わくば、この1年に疲れ怯えたすべての人々に、この芝居を贈りたいと。








『台詞に恋して 〜閉ざされて』 を書いてから四ヶ月。


季節は移り、上演を経て、日々は少しずつ進んでいくけれど、
今も私はその早春の日と同じことを思っている。


生きるということは、圧倒的な力強さでほとばしる、希望そのものなのだと。












19歳から芝居を始めて30年目、私は、そんな風に解釈できるようになった。


だから、あなたの30年後も大丈夫だよと、
私から、


贈ってあげたい。



















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SUBJECTION〜閉ざされて  後れ文その1


























これは悲しい台詞だ。


10年前の20周年公演の折に、私は母役を演じたが、
子どものようにまっすぐな、この素朴な疑問を投げかけられて、
お腹すかないわけがないじゃない…と思いながら、見えないテーブルを拭いていた。


そのときの自分は、必ず微笑していた。
憐憫の微笑。






何を憐れんだのか。


たぶん、藤田という青年の善意と、
善意というものをきちんと信じていられる人への羨みと、
そんなやさしさへの感謝と、申し訳なさと、
それでも命を懸けて狂気の沙汰を貫き通そうとしている愚かな自分の、
心、境遇、人間性


そんなものに対しての哀しみだったと思う。






大橋はこういう、無垢な叙情ゼリフが得意だ。


暗い秘密を死守し続けるこの役が、唯一あたたかい気持ちになれる瞬間だった。
私はこのシーンが一番好きだった。






ある大きな事件のために、人生のバランスを崩してしまった劇団スパイラルの役者たち。


作家は、この集団の演技スタイルを無対象芝居と設定した。


幕だけの素舞台の上で、彼らは食卓や台所や鏡や煙草やアルバムや、
ありとあらゆるリアルを出現させて、家族の日常を送る。






彼らは「終らなかった芝居」を続けているのだ。


観客もいなくなった劇場で、
正気と狂気が彷徨う、中有のような曖昧な闇の中で、


延々と。






Seeing is Believing. 見ることこそ信じること。


この劇場での上演のために乗り込んできた次の劇団の主宰者は、
彼らを見てそういう。


しかし彼らにとっては逆なのだろう。






Believing is Seeing...


信じれば見えるのだ。


そしてこれこそが、演劇の本質でもある。
送り手も観客も、その魔法の一点を共有したくて劇場に向かう。






役者4人が嵌りこんだ秘密の闇は、「生存するために食を絶つ」という矛盾を生み出す。


こんな過酷な皮肉の末にあるはずの爪の先ほどの希望にすがりながら、
見えないテーブルを囲んで、在りもしない箸を操って、
彼らは今日も‘食事’をする。






何が彼らをここまで支配したのか。


彼らが演劇人でなかったら、この‘奇妙な事件’は起きなかったのかもしれない。


けれど何処で何をしていようと、きっと支配される苦しみには出遭っていただろう。
彼らはそういう選択をしてしまう人たちなのだ。


善意や優しさや生真面目さを持つがゆえに、
とても身軽くは世間の海を泳ぎこなしていけない人たちなのだから。






人は誰でも、瞬間瞬間、何かからの支配を受け続けている。


邪で冷たくて不誠実な人間であればよけいに、違ったものに支配されるのだろう、
多くはとてつもなく大きな欲望に。


人さまの命より自分の銭カネをとるヤツら。

そんな言葉も浮かんでくる。


どこか遠い物語の登場人物のように思っていたそういう存在が、
自分の暮らしを支配していたと知った驚愕は、
古いシミのようにこびりついて、もはや拭き取ることはできない。






人は必ず、何かに支配されているのだ。


たとえ気づいていなくても。


それが愛情であっても。






現に、スパイラルと舞台を奪い合うことになったもう一方の「リブレセン」も、
説得にお手上げしたからといって安々とは譲らない。


劇団そのものか、カリスマか、夢か、憧れか、芝居へのこよなき愛か、
ひとりひとりの信じる力か、或いは観客か…


スパイラルとは真逆の生き生きとした躍動をほとばしらせていても、
彼らもまた、何かに支配されているのだ。






支配を許すということは、不足から生まれるのだと思う。


何かを得ようとした瞬間に、たぶん弱みは生まれ、
依存と支配のパラドックスがはじまる。


実際には、支配しているものが支配されているものに依存しているのだ。
支配者も、また支配されている。






欲望は凶器。

欲望は生きる力。


欲望は、弱味。






自分の弱さに「すんませ〜ん」と笑って頭を掻けるぐらいの、
こだわりをさっさと捨てられる心持ちの人は、
支配というものから遠く居られているのかもしれない。


それはもっとも難しいことなのだけれど。


自分が自分じゃなくなるような、或いは自分のここまでを無駄にしたような、
不安に駆られることになるから。


何につけ捨てるということには度胸がいるものだ。






自分も深く囚われていた。

欲望よりももっと厄介な、見えない常識というものに。


「人には絶対に迷惑をかけてはいけない」


子供のころから刷り込まれてきた、この儒教的な規範を疑う日本人は、
まだまだ少ないだろう。






しかし、インドの子供は母親からこう教えられて育つのだという。


「自分が迷惑をかけるのだから、人の迷惑も許しなさい」


…インドの人々は、少しだけ支配から逃れられている気がする。






ある時期から、自分は目標を立てることに怖さを覚えるようになった。


それはイコール、‘前向きな執着’のような気がしてきて。


この世を仕舞ういつ訪れるか分からないその瞬間に、心残りを持っていることが、
私は今一番こわい。


だから先の目標など立てたくないのだ。






『ゴールを見つめて走るのでなく、走っていたらゴールについた』
今、自分が理想としているのはこの在りようだ。


この目の前を過ぎていくものを愛で、頬をくすぐるそよ風の匂いに深呼吸しながら、
陽の光をいっぱいに浴びて、走る、走ることを楽しむ。






何処に着くのかは、知らなくていい。


だってきっと、そんな風に走っていたら、悪い処であるはずがないもの。


そう確信できるようになって、
自分も、見えない呪縛のほんのひと巻き分だけは、
緩められた気がしている。






SUBJECTION。


怖くて甘美な、見えない支配。


その存在に気づかずに、何の懐疑も持たずに済めば、
それは安らぎすらもたらすものなのかもしれない。


しかし、気づいてしまったら、腐臭をともなうシミ以外の何ものでもなくなるのだ。






まだ間に合う。
新しいシミなら、必死になればきっと元に戻せる。


けれどその抵抗は、月日を送る内に先に薄まっていってしまう。


闘いを止めさえすれば、
とりあえずは、
やわらかな褥に横たわるような甘美で安らかな時間を、また送れるから。






まやかしでも、安らぎを得られるならそれでいい、
そう思うのは罪じゃない。


心残りの種には、きっとなるだろうけれど。






何を、どう選んでいくかは、独りで決めることなのだ。


何がしかの豊潤を得るために支配に身を投じる人もいる。
支配されないことを最上の豊潤とする人もいる。


あなたの答えとわたしの答えは違っていいのだ。


たぶん、それが自由というものなのだ。






自分で選びとること。


それが、支配というものの上を行く、唯一の方法なのだと、
私は信じられるようになれた。







スパイラルの彼らは、「邪魔者たち」の情理を借りて、闇から抜け出すことが出来た。

ひとまずはね。


そう、ひとまずは…






舞台を支配する魔物は、今も劇場に棲んでいて、
一度でもそこを訪れた者は虜にされてしまうから、


少なくとも我々は、30年を捧げてしまったのだから、






聞こえてはこないだろうか、美しく残酷な魔物の高笑いが。


まるで17才のような、怖れを知らぬ声が…












そして、






ギリギリの瀬戸際で、命の小さな灯を絶やさずにいることだけを見つめて、
凄絶な支配の中を、たった独りで生き抜いた少女がいた。


奇しくもこの30周年記念公演の2作品は、文字通り、
「SUBJECTION -支配-」というキーワードで結ばれることになった。




次回は、その少女の物語『閉ざされて』について、
終演した今だから記せる想いを、後れ文に書こうと思っている。
















劇団員ブログ 山岸諒子 R's Voyage


山岸諒子SITE RoseGarden

SUBJECTION






















芝居って、なんのためにあるんだろう。




生きるためにどうしても必要なものではないのに。

何か事があれば真っ先に削られてしまうようなただの遊興なのに。




なぜ、この長い時間、芝居は世の中から無くならずに来たのだろう。




観るものも、演るものも、なにを求めて、劇場へと向かうのか。




   そ こ に 舞 台 が あ る 限 り 彼 ら は 演 じ 続 け る




舞台という魔物に魅せられた役者たちの、
奇妙で哀切な闘いの物語 『SUBJECTION』。




30年目の今回、舞台は『閉ざされて』さえ取り込みはじめ、
彼らをSUBJECTしはじめる。




抗うほどに囚われることになるのは、もしかすると、
この舞台を観たあなたかもしれない…




芝居ってなんのためにあるのだろう。




答えは、




もうわかっているのかもしれない。










   劇団離風霊船 創立30周年記念公演第二弾 『SUBJECTION』

   作・演出 大橋泰彦
   4月11日(水)〜15日(日) 下北沢 ザ・スズナリ

   ご予約・公演情報はこちら





劇団離風霊船サイト

閉ざされて















重い出来事は、どこか遠くに置き去りにされる。


それに囚われている限り、ネガの沼から抜け出せないから。


思い出しさえしなければ、
気持ちには平安がもたらされ、日々の暮らしを送っていける。






しかし、見て見ぬふりをして得た安らぎは本物ではない。
だから心を落ち着かなくさせる。


欺瞞の時限爆弾のようなものだということを、自分が一番よく知っているから。






無かったことにしたい出来事と対峙するということは、血を吹くような辛い格闘だ。


そんな目に遭ってまで、
日々の平穏を壊してまで、
闘う意味があるのか。






今日を無事に乗り切れればそれでいい。


できることなら、目の前から消え去ったまま、自分を見つけないで欲しいと願いながら、
明日へ明日へと先送りされていく。






そう、それは、執行を猶予されているというだけの、ただの先送りなのだ。


過去は、実際にはいつでも身に添ってついてまわっているのだから、
置き去りになど出来ようはずもない。


先のいずれかで必ず迎えに出てくる。






自分は自分を本当に生きているのだろうか。


この先の気の遠くなるような長さ、或いは、限りがあると悟った時間いっぱい、
本当に生き切るということを願えば、
心は本物の落ち着きを、安らぎを、得たいと望みはじめる。






忘れてしまいたい過去にこそ、自分が生きている意味が隠されているのかもしれない。


自分の人生を作っているのはただ一人、この自分なのだという、
存在の揺るぎなさを与えてくれる何かは、
もしかしたら、その血を吹くような闘いの中のみに、あるのかもしれない。






・・・『閉ざされて』。


この作品は、2000年に新潟で発覚した少女監禁事件をモチーフにしている。


9歳で誘拐され19歳で発見されるまでの‘失われた9年2ヶ月’は、
彼女にとってのなんであったのか。






何が彼女を生き抜かせたのか。


何を彼女は愛し続けたのか。








この芝居を見たら、笹川美和さんのこの曲をもう一度聴いてみてほしい。
あなたはきっと戦慄することになるだろう。


生きるということは、圧倒的な力強さでほとばしる、希望そのものなのだ。






願わくば、この1年に疲れ怯えたすべての人々に、この芝居を贈れたらと、
心から思う。










   劇団離風霊船 創立30周年記念公演第一弾 『閉ざされて』

   作・演出 大橋泰彦
   4月4日(水)〜8日(日) 下北沢 ザ・スズナリ
   
   ご予約・公演情報はこちら







劇団離風霊船サイト

ある日の出来事・続































この台詞を初めて読んだとき、ちょっと、得もいえぬ気持ちになって、思わずうなってしまった。


「クズと認めてしまえば楽になる」という言葉が、
現在(いま)を生きる自分をズドンと撃ち抜いたからだ。


どうせダメになる世の中なら、今くよくよしてもしょうがない。


そう言っているように聞こえてきたのだ。





まさに掃き溜めといった劣悪な環境の中で、どん底を生きるこの工場労働者たちは、
うめくような恨み節を吐く。


しかし彼らは、決して正面から自分の境遇を何とかしようとはしない。


食うために身体を壊していく一方で、酒やギャンブルに身をやつし、
あるいはゴシップを触れ回り、あるいはインテリぶることで、それぞれに日々の憂さを晴らして、
現実から目を背けている。





そんな中で男3は、この台詞を言うのだ。
なぜだかカラッとした調子で。


それが諦観からくるものなのか、楽観なのか、滅びの美学に酔いしれた達観なのか、
定かではないまま。





確かに、クズと認めてしまえばラクなのだ。


けれど誰も、自分をクズだとは思いたくない、まして人から決めつけられたくはない。


だから、大方の人間は、昨日よりもよい明日の自分になりたくて、
怠惰と努力のあいだで自分を責める今日を送ることになる。





この流れは健全だと思う。
他者や社会を映し鏡にして、自分の在り方を常に確認しているからだ。


しかし、世界に自分しかいない者は、全てを他人のせいにする。


誇り高く完璧な自分を取り巻く世界が完璧でないのは、
有害な異分子がいるからだと思い込む。


それが高じてヒトゴロシにまで至ってしまったのが、この作品の主人公だ。





どん底の労働者たちは、実は皆、主人公の頭の中の住人なのである。


だからこの人たちには前向きな自己建設欲がない。


人は皆、今の自分に「なりたくてなった」と卑下し、そこに居ることを呪うばかりで、
その先を作ろうとする言葉はない。


そうして、滅びるのはあくまで「有害な異分子」の方で、自分ではない。





人間とは、置かれた環境の中で最良をみつけようとするものだ。


終盤で登場する現実の労働者たちは、もっとダイナミックに生きている。
たとえどん底を意識していたとしても、笑って折り合いを付ける術を持っている。


死ぬほど憎い人間がいれば、その分他に、気持ちを寄せられる相手を探そうともする。
そうしてそれは、お互い様なのだ。


他者とのそんなやり取りが出来ていれば、彼も雇用主をあやめることはなかったのだ。





もしもこの主人公が、もっと裕福な生まれの男であったとしても、
世界を一人で創っている限り、きっと同じことになったのだと思う。


いや、もっと悲惨に、もっと大規模に人々を不幸に突き落とす因子になっていただろう。
力を持つ人間には、有害な異分子は増えていく一方なのだ。


なぜなら彼らは、間違いを「無かったこと」にできる消しゴムを持っているから。





気に入らない色むらやはみ出しは、一つ消したらどんどん目に付くようになる。
うまく消えれば味を占める。


手も汚さずに、上手にゆるやかに、彼らは次々と消しゴムをかけていくのだ。





…前回、人はみな異なる色の目でものごとを見ていると書いたが
芝居をしている面白さのひとつに、
作品を通過することで、時にこの色が変わる体験に出くわすということがある。


あの春の日から8ヶ月経って、どん底のクズたちの一員を演じてみて、
日本人には、明るい居直りのようなメンタリティがあると思うようになった。





毎日、口汚く悪態ゼリフばかりをののしるのは、本当に疲れるのだ。


それをストレスの発散に変えられるほどのやわなカタルシスは許されていない、
そういう作品だった。


生きるとは、安らかで楽しいものでなければならないのだ。
それを自らぶち壊すことなど、もったいなくて出来ない。


人生に限りがあると自覚すれば、尚さらに。





自分の生まれた国が、
同胞を緩やかな死に追いやることのまかり通る国だった事実にショックを受けながら、
この汚染された世の中をどう渡っていく気なのか、
何事も無かったように笑って過ごす人々の本音を聞いてみたい自分は、今もいる。


けれど、それが楽観でも諦観でも、どちらでもいいかなと思えるようになったのは、
この国の庶民の底力を信じる気になれたからかもしれない。





大衆が文化を作り出しているのは、日本と米国だけなのだそうだ。


欧州などの階層社会の歴史を持つ国々では、
文化というものは上流階級から下層に降りてくるもので、その逆はないのだという。


しかしこの国では、下々がせっせと暮らしの工夫をする中から文化が発生し、
縦ではなく、まず横に広がっていくのだ。





勤労意識もそうだ。


西欧では、労働は下層の者のすることで、貴人は働かないという通念があるため、
大方の庶民にとっては嫌々やりすごすもので、職に真剣になる感覚が薄いのだという。


しかし日本人は、勤労が個人の癒しにつながるという稀有な性質を持っている。


搾取されるために働くという不条理以前に、対価や損得、貴賎とさえも別の次元で、
労働を、「仕事」という自分の存在証明に変えてしまう喜びを、血が知っているのだ。





「自分の仕事」の前には、支配・被支配という縦のベクトルをも逆転させ得るプライドが、
古の奴婢にさえもあったのではないだろうか。


エライ人たちは暮らしのことは何にも出来ないから、
ええ、ええ、わたしたちがやってあげますよ、だからみんながついひれ伏すように、
きれいに、立派にしていてくださいね。


こんな意識がこの国の歴史に、破滅的な暴動や転覆を起こさせずに来たのではとも思う。





資本主義とは怖ろしいものだと思う。
持てる者がエライ世の中だけれど、私欲に走る持てる者は、ちっともエラくない。


エライ人だから使っていい特権を、
きれいでも立派でもない者が行使するから破綻がくるのだ。





この国には大衆がいる。


そこを無視することは、たぶん構造的に無理だ。





生きた庶民は、一人の男が頭で作り出した妄想の人物たちより、
もっとあっさりと自由な、繊細で真摯な底力をつちかってきたのだ。


意地でも笑い抜けてやるわい、というしぶとさと共に。


この8ヶ月で身の中に溜まってきた漠然としたイメージが、
どん底のクズ女を演じたことで立体になった。





それを肉体で伝えるのが、役者の「仕事」なのだ。





来年は30年目だ。













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ある日の出来事


























人はみな、異なる瞳の色で生きている。


それに気づいていない者も多いけれど、
とにかく、その膜をはがすことはなかなか出来ない。


だって、痛いものね。






薔薇色の瞳と灰色のそれとでは、同じ事柄でもまるで違った様相に映ることだろう。


どれか一つに色を決められないから厄介で、
しかし、だからこそこの世は、
たぶん美しい。






今年のハロウィーンの日に、人類は70億人になるのだという。


この地上を見つめる、70億の色の瞳…






世の中に確実なものは、起きた出来事だけ。


どんな色を通して、自分はそれを見ているのだろう。






見つめた途端に、真実は、70億に彩られた藪の中に葬られていく。






確実なのは、出来事が起きたという、ただそれだけ。


隣にいる人には、まるで違うものに見えているのかもしれない。






ある日の出来事。






あなたはそれを、どんな色で見るのだろう。








       離風霊船 2011年11月公演 伊東由美子新作 『ある日の出来事』

       11月9日(水)〜13日(日) 中野ザ・ポケット




       劇団離風霊船 WEB SITE
       詳細はこちらでも









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