ある日の出来事・続
この台詞を初めて読んだとき、ちょっと、得もいえぬ気持ちになって、思わずうなってしまった。
「クズと認めてしまえば楽になる」という言葉が、
現在(いま)を生きる自分をズドンと撃ち抜いたからだ。
どうせダメになる世の中なら、今くよくよしてもしょうがない。
そう言っているように聞こえてきたのだ。
まさに掃き溜めといった劣悪な環境の中で、どん底を生きるこの工場労働者たちは、
うめくような恨み節を吐く。
しかし彼らは、決して正面から自分の境遇を何とかしようとはしない。
食うために身体を壊していく一方で、酒やギャンブルに身をやつし、
あるいはゴシップを触れ回り、あるいはインテリぶることで、それぞれに日々の憂さを晴らして、
現実から目を背けている。
そんな中で男3は、この台詞を言うのだ。
なぜだかカラッとした調子で。
それが諦観からくるものなのか、楽観なのか、滅びの美学に酔いしれた達観なのか、
定かではないまま。
確かに、クズと認めてしまえばラクなのだ。
けれど誰も、自分をクズだとは思いたくない、まして人から決めつけられたくはない。
だから、大方の人間は、昨日よりもよい明日の自分になりたくて、
怠惰と努力のあいだで自分を責める今日を送ることになる。
この流れは健全だと思う。
他者や社会を映し鏡にして、自分の在り方を常に確認しているからだ。
しかし、世界に自分しかいない者は、全てを他人のせいにする。
誇り高く完璧な自分を取り巻く世界が完璧でないのは、
有害な異分子がいるからだと思い込む。
それが高じてヒトゴロシにまで至ってしまったのが、この作品の主人公だ。
どん底の労働者たちは、実は皆、主人公の頭の中の住人なのである。
だからこの人たちには前向きな自己建設欲がない。
人は皆、今の自分に「なりたくてなった」と卑下し、そこに居ることを呪うばかりで、
その先を作ろうとする言葉はない。
そうして、滅びるのはあくまで「有害な異分子」の方で、自分ではない。
人間とは、置かれた環境の中で最良をみつけようとするものだ。
終盤で登場する現実の労働者たちは、もっとダイナミックに生きている。
たとえどん底を意識していたとしても、笑って折り合いを付ける術を持っている。
死ぬほど憎い人間がいれば、その分他に、気持ちを寄せられる相手を探そうともする。
そうしてそれは、お互い様なのだ。
他者とのそんなやり取りが出来ていれば、彼も雇用主をあやめることはなかったのだ。
もしもこの主人公が、もっと裕福な生まれの男であったとしても、
世界を一人で創っている限り、きっと同じことになったのだと思う。
いや、もっと悲惨に、もっと大規模に人々を不幸に突き落とす因子になっていただろう。
力を持つ人間には、有害な異分子は増えていく一方なのだ。
なぜなら彼らは、間違いを「無かったこと」にできる消しゴムを持っているから。
気に入らない色むらやはみ出しは、一つ消したらどんどん目に付くようになる。
うまく消えれば味を占める。
手も汚さずに、上手にゆるやかに、彼らは次々と消しゴムをかけていくのだ。
…前回、人はみな異なる色の目でものごとを見ていると書いたが、
芝居をしている面白さのひとつに、
作品を通過することで、時にこの色が変わる体験に出くわすということがある。
あの春の日から8ヶ月経って、どん底のクズたちの一員を演じてみて、
日本人には、明るい居直りのようなメンタリティがあると思うようになった。
毎日、口汚く悪態ゼリフばかりをののしるのは、本当に疲れるのだ。
それをストレスの発散に変えられるほどのやわなカタルシスは許されていない、
そういう作品だった。
生きるとは、安らかで楽しいものでなければならないのだ。
それを自らぶち壊すことなど、もったいなくて出来ない。
人生に限りがあると自覚すれば、尚さらに。
自分の生まれた国が、
同胞を緩やかな死に追いやることのまかり通る国だった事実にショックを受けながら、
この汚染された世の中をどう渡っていく気なのか、
何事も無かったように笑って過ごす人々の本音を聞いてみたい自分は、今もいる。
けれど、それが楽観でも諦観でも、どちらでもいいかなと思えるようになったのは、
この国の庶民の底力を信じる気になれたからかもしれない。
大衆が文化を作り出しているのは、日本と米国だけなのだそうだ。
欧州などの階層社会の歴史を持つ国々では、
文化というものは上流階級から下層に降りてくるもので、その逆はないのだという。
しかしこの国では、下々がせっせと暮らしの工夫をする中から文化が発生し、
縦ではなく、まず横に広がっていくのだ。
勤労意識もそうだ。
西欧では、労働は下層の者のすることで、貴人は働かないという通念があるため、
大方の庶民にとっては嫌々やりすごすもので、職に真剣になる感覚が薄いのだという。
しかし日本人は、勤労が個人の癒しにつながるという稀有な性質を持っている。
搾取されるために働くという不条理以前に、対価や損得、貴賎とさえも別の次元で、
労働を、「仕事」という自分の存在証明に変えてしまう喜びを、血が知っているのだ。
「自分の仕事」の前には、支配・被支配という縦のベクトルをも逆転させ得るプライドが、
古の奴婢にさえもあったのではないだろうか。
エライ人たちは暮らしのことは何にも出来ないから、
ええ、ええ、わたしたちがやってあげますよ、だからみんながついひれ伏すように、
きれいに、立派にしていてくださいね。
こんな意識がこの国の歴史に、破滅的な暴動や転覆を起こさせずに来たのではとも思う。
資本主義とは怖ろしいものだと思う。
持てる者がエライ世の中だけれど、私欲に走る持てる者は、ちっともエラくない。
エライ人だから使っていい特権を、
きれいでも立派でもない者が行使するから破綻がくるのだ。
この国には大衆がいる。
そこを無視することは、たぶん構造的に無理だ。
生きた庶民は、一人の男が頭で作り出した妄想の人物たちより、
もっとあっさりと自由な、繊細で真摯な底力をつちかってきたのだ。
意地でも笑い抜けてやるわい、というしぶとさと共に。
この8ヶ月で身の中に溜まってきた漠然としたイメージが、
どん底のクズ女を演じたことで立体になった。
それを肉体で伝えるのが、役者の「仕事」なのだ。
来年は30年目だ。