SUBJECTION〜閉ざされて  後れ文その1


























これは悲しい台詞だ。


10年前の20周年公演の折に、私は母役を演じたが、
子どものようにまっすぐな、この素朴な疑問を投げかけられて、
お腹すかないわけがないじゃない…と思いながら、見えないテーブルを拭いていた。


そのときの自分は、必ず微笑していた。
憐憫の微笑。






何を憐れんだのか。


たぶん、藤田という青年の善意と、
善意というものをきちんと信じていられる人への羨みと、
そんなやさしさへの感謝と、申し訳なさと、
それでも命を懸けて狂気の沙汰を貫き通そうとしている愚かな自分の、
心、境遇、人間性


そんなものに対しての哀しみだったと思う。






大橋はこういう、無垢な叙情ゼリフが得意だ。


暗い秘密を死守し続けるこの役が、唯一あたたかい気持ちになれる瞬間だった。
私はこのシーンが一番好きだった。






ある大きな事件のために、人生のバランスを崩してしまった劇団スパイラルの役者たち。


作家は、この集団の演技スタイルを無対象芝居と設定した。


幕だけの素舞台の上で、彼らは食卓や台所や鏡や煙草やアルバムや、
ありとあらゆるリアルを出現させて、家族の日常を送る。






彼らは「終らなかった芝居」を続けているのだ。


観客もいなくなった劇場で、
正気と狂気が彷徨う、中有のような曖昧な闇の中で、


延々と。






Seeing is Believing. 見ることこそ信じること。


この劇場での上演のために乗り込んできた次の劇団の主宰者は、
彼らを見てそういう。


しかし彼らにとっては逆なのだろう。






Believing is Seeing...


信じれば見えるのだ。


そしてこれこそが、演劇の本質でもある。
送り手も観客も、その魔法の一点を共有したくて劇場に向かう。






役者4人が嵌りこんだ秘密の闇は、「生存するために食を絶つ」という矛盾を生み出す。


こんな過酷な皮肉の末にあるはずの爪の先ほどの希望にすがりながら、
見えないテーブルを囲んで、在りもしない箸を操って、
彼らは今日も‘食事’をする。






何が彼らをここまで支配したのか。


彼らが演劇人でなかったら、この‘奇妙な事件’は起きなかったのかもしれない。


けれど何処で何をしていようと、きっと支配される苦しみには出遭っていただろう。
彼らはそういう選択をしてしまう人たちなのだ。


善意や優しさや生真面目さを持つがゆえに、
とても身軽くは世間の海を泳ぎこなしていけない人たちなのだから。






人は誰でも、瞬間瞬間、何かからの支配を受け続けている。


邪で冷たくて不誠実な人間であればよけいに、違ったものに支配されるのだろう、
多くはとてつもなく大きな欲望に。


人さまの命より自分の銭カネをとるヤツら。

そんな言葉も浮かんでくる。


どこか遠い物語の登場人物のように思っていたそういう存在が、
自分の暮らしを支配していたと知った驚愕は、
古いシミのようにこびりついて、もはや拭き取ることはできない。






人は必ず、何かに支配されているのだ。


たとえ気づいていなくても。


それが愛情であっても。






現に、スパイラルと舞台を奪い合うことになったもう一方の「リブレセン」も、
説得にお手上げしたからといって安々とは譲らない。


劇団そのものか、カリスマか、夢か、憧れか、芝居へのこよなき愛か、
ひとりひとりの信じる力か、或いは観客か…


スパイラルとは真逆の生き生きとした躍動をほとばしらせていても、
彼らもまた、何かに支配されているのだ。






支配を許すということは、不足から生まれるのだと思う。


何かを得ようとした瞬間に、たぶん弱みは生まれ、
依存と支配のパラドックスがはじまる。


実際には、支配しているものが支配されているものに依存しているのだ。
支配者も、また支配されている。






欲望は凶器。

欲望は生きる力。


欲望は、弱味。






自分の弱さに「すんませ〜ん」と笑って頭を掻けるぐらいの、
こだわりをさっさと捨てられる心持ちの人は、
支配というものから遠く居られているのかもしれない。


それはもっとも難しいことなのだけれど。


自分が自分じゃなくなるような、或いは自分のここまでを無駄にしたような、
不安に駆られることになるから。


何につけ捨てるということには度胸がいるものだ。






自分も深く囚われていた。

欲望よりももっと厄介な、見えない常識というものに。


「人には絶対に迷惑をかけてはいけない」


子供のころから刷り込まれてきた、この儒教的な規範を疑う日本人は、
まだまだ少ないだろう。






しかし、インドの子供は母親からこう教えられて育つのだという。


「自分が迷惑をかけるのだから、人の迷惑も許しなさい」


…インドの人々は、少しだけ支配から逃れられている気がする。






ある時期から、自分は目標を立てることに怖さを覚えるようになった。


それはイコール、‘前向きな執着’のような気がしてきて。


この世を仕舞ういつ訪れるか分からないその瞬間に、心残りを持っていることが、
私は今一番こわい。


だから先の目標など立てたくないのだ。






『ゴールを見つめて走るのでなく、走っていたらゴールについた』
今、自分が理想としているのはこの在りようだ。


この目の前を過ぎていくものを愛で、頬をくすぐるそよ風の匂いに深呼吸しながら、
陽の光をいっぱいに浴びて、走る、走ることを楽しむ。






何処に着くのかは、知らなくていい。


だってきっと、そんな風に走っていたら、悪い処であるはずがないもの。


そう確信できるようになって、
自分も、見えない呪縛のほんのひと巻き分だけは、
緩められた気がしている。






SUBJECTION。


怖くて甘美な、見えない支配。


その存在に気づかずに、何の懐疑も持たずに済めば、
それは安らぎすらもたらすものなのかもしれない。


しかし、気づいてしまったら、腐臭をともなうシミ以外の何ものでもなくなるのだ。






まだ間に合う。
新しいシミなら、必死になればきっと元に戻せる。


けれどその抵抗は、月日を送る内に先に薄まっていってしまう。


闘いを止めさえすれば、
とりあえずは、
やわらかな褥に横たわるような甘美で安らかな時間を、また送れるから。






まやかしでも、安らぎを得られるならそれでいい、
そう思うのは罪じゃない。


心残りの種には、きっとなるだろうけれど。






何を、どう選んでいくかは、独りで決めることなのだ。


何がしかの豊潤を得るために支配に身を投じる人もいる。
支配されないことを最上の豊潤とする人もいる。


あなたの答えとわたしの答えは違っていいのだ。


たぶん、それが自由というものなのだ。






自分で選びとること。


それが、支配というものの上を行く、唯一の方法なのだと、
私は信じられるようになれた。







スパイラルの彼らは、「邪魔者たち」の情理を借りて、闇から抜け出すことが出来た。

ひとまずはね。


そう、ひとまずは…






舞台を支配する魔物は、今も劇場に棲んでいて、
一度でもそこを訪れた者は虜にされてしまうから、


少なくとも我々は、30年を捧げてしまったのだから、






聞こえてはこないだろうか、美しく残酷な魔物の高笑いが。


まるで17才のような、怖れを知らぬ声が…












そして、






ギリギリの瀬戸際で、命の小さな灯を絶やさずにいることだけを見つめて、
凄絶な支配の中を、たった独りで生き抜いた少女がいた。


奇しくもこの30周年記念公演の2作品は、文字通り、
「SUBJECTION -支配-」というキーワードで結ばれることになった。




次回は、その少女の物語『閉ざされて』について、
終演した今だから記せる想いを、後れ文に書こうと思っている。
















劇団員ブログ 山岸諒子 R's Voyage


山岸諒子SITE RoseGarden