SUBJECTION〜閉ざされて  後れ文その2






























つらいことは忘れてしまったほうがいいと言う。


それは…本当の本当は、
言ったその人が希望していることなんじゃないのかな。




忘れられずに苦しんでいる姿を見るのがつらいから、
気楽にしていてくれないと、自分も進んでいけないから。


それは愛情からだったとしても。




愛している人があたたかく満たされていたら、自分もしあわせだから、
愛している人の不仕合わせを拭ってあげられたら、
自分も一緒に生きてると信じられるから、


だから、
早く忘れてくれないかなと、忘れたほうがいいよとは、
同じ言葉なんじゃないだろうか。




それが禍々しい過去であった場合は、尚更に。






だけど、そのことを忘れるか、忘れないか、忘れられるか忘れられないかは、
自分が決めることだよね。


周りのリクエストに応えて選ぶことでは、本当はないのよね。
応えたくなる動機も、思いやりとかやさしさとかの、イコール愛している、からではあっても。






確かに心にまとわりつく曇りは早く手放したほうが楽にはなれるのだけれど、
手放したくても手放せないことはたくさんあって、
そんなときに、「早く忘れることだ」なんて言われると、
なんだかその人との距離を感じて、
自分は、ああ結局独りなんだよな、とか、ちゃんと立っていられているのかなとか、
振り返ってみたくなる。




そうやって確かめて、やっぱり忘れる前にすることがある、
と思えば、
一歩を踏み出さないと、ダメなんだと思うようになる。




そうしてその旅には、傍(かたえ)は要らないことが解かる。
これは自分の問題だから、独りだけのチカラで、ちゃんと越えていきたい。


そう、
思う。














9歳で誘拐されて、19歳で解放されるまでの9年2ヶ月、
犯人と二人きりで生きたこの歳月を、彼女を取り戻した人々は封印しようとする。


二度とその禍々しさに引き戻されないように。
ここからは、清冽に輝く、透きとおった光だけを浴びていってくれるように。








けれど、それは、彼女にとっては悲しみと背中合わせの、
外の世界の祈りなのかもしれない。


人が躍起になって封じようとするその過去は、紛れもなく自分が生きた時間なのだから。


あの9年を無かったことにしたら、今ここにいる自分は何なのだ?
この先どんなに人から愛されても、いったいそれはこの自分なのか、本当に愛されているのか、
そんなことさえ分からなくなってしまう。








彼女の名は春奈。


2000年に新潟で発覚した少女監禁事件をモチーフに、大橋が生み出した、
やさしくはかなげな、しかし不屈のヒロインだ。


作家はこの彼女に何を託そうとしたのか。








2005年の初演の際も、私は母親役を演じたが、
正直言ってそのときには、この物語の軸がよく解からなかった。


春奈は最後に、自分を誘拐して閉じ込めた犯人と対峙するのだが、
そのとき彼女は「あなたを愛していた」と言うのだ。








これが女の生理ではどうにも腑に落ちず、かといって、
すでに収監されている犯人に対しての最も熾烈な復讐の台詞であることは間違いがないため、
どう解釈すればよいものか、自分にとっては未消化のまま残っていた作品だったのだ。


ただの色恋沙汰に帰結する物語であるはずはないのだが…
自分の中では納得を見出せないまま、演者と演出の作るシーンを見守った初演だった。








そこから7年を置いた今回の再演までに、この国には大きな惨禍が降りかかった。


言わずもがなの、
東日本大震災福島第一原発放射能漏れ事故だ。








すべての根底を揺るがされたこの体験を経て、いまいちどこの作品と向き合ったとき、
私は、抱えていた腑に落ちなさが氷解するのを感じていた。








いちど事に出くわしたら、そこからはもう昨日までとは違う。
決して元に戻すことはできない。


だったら、起きたこれを、なんとかより善き方向に転化できないものか。








1年を経て、私の気持ちはその一点に向かっていた。
だってこのままあきらめるなんてありえないから。








仕方がない。
あきらめが肝心。


冗談じゃない。
何をどう選ぼうとも、身体はその日までは続いていく。
その日がいつなのかも分からないなら、「この日々の中」でどう生きるか、
在るのはそれのみだろう。


自分の人生に泣き寝入りなんてしたくない。
これを経たからこそ、もっと善い未来を本気で希求するのだ。








この眼のままにこのホンを読んだとき、
「愛していた」の奥に横たわっている春奈の想いに、気づけたのだ。








それこそ本当に命を懸けて生き抜いたあの日々。
閉ざされた部屋のベッドの上から、一歩も出ることを許されなかった支配の毎日であっても、
彼女は彼女を失わなかった。
自分の意思でその時間を紡ぐことを選び、一度も隷属に落ちたことはなかった。


生きる。
生き抜く。


その魂のほとばしるような渇望を知っているのは、ほかならぬ自分だけなのだから。


自分以外に、あの9歳の、15歳の、19歳の自分を認めて愛してやれる者が、
この世のどこにいよう。








愛していた。


ワタシハ アノ9ネンカン ココロノソコカラ アイシテイタ。
ワタシヲ。
9ネン2カゲツノ ワタシノ ジカンヲ。








誰が認めなくてもいい、わたしだけは、あなたのあの日々を、あの日々のあなたを、
愛してあげるからね。








そう思えたとき、彼女は、
一個の人間という枠を超えた、誰もついていけないほどの大きな生命の塊になった。


生きた証しと、生まれてきた意味をたずさえた、代えの利かないただ独りの存在として、
すっくりと立ち上がることができたのだ。






燦燦ときらめくまぶしい海からの陽光を、その一身に浴びながら。






幼い自分に命懸けの日々をもたらした、死ぬほど憎い犯人にさえも、
愛していたと言える彼女になって。








生きるとは、生きる意志とは、なんと力強いものか。








傍を伴わない彼女の心の旅は、犯人に一矢を報いるためのものではない。
9年の間にあるはずだったきらめくような青春を創作して、「体験」し直していく、
それは、犯人に語ることで実現されるのだ。


自分の9年間のただ一人の目撃者だから。
それを聞かせることで、
彼女のもっとも美しかった十代は、波光にきらめきながら散華していくのだ。








たとえ人が忌み嫌う時間であったとしても、それが「自分の物語」。


だから彼女はすべてを愛する。
今と、これまでと、これからの、すべてを。








支配は許しても、隷属には落ちない。
たった9歳の女の子が、自分の力だけで育てていった、ひとの真実の輝き。








迷いや憤りで胸がふさがれそうになる現在(いま)を生きることに、
負けないものをくれないだろうか。


自分を愛する愛し方を、春奈は贈ってくれはしなかっただろうか。


たとえ世界が閉ざされようと、自分の物語の扉を開き続ける。


命とは、心のことなのだと。












あきらめる、とは仏教用語の本来では「明ら見る」という意味なのだそうだ。


この世に生れ落ち、生かされて、宇宙の塵のひとつとして真理の中で生きる、
その因果の在りのままを明らかに見て、
この先の自分の命にどう活かしていくかを見つけること。


それが本当の、諦観(たいかん)なのだという。








春奈はあきらめたのだ。


自分の物語を生きることを、自分で物語を創ることを、
「明らめ」たのだ。


だから私も書けたのだ。
願わくば、この1年に疲れ怯えたすべての人々に、この芝居を贈りたいと。








『台詞に恋して 〜閉ざされて』 を書いてから四ヶ月。


季節は移り、上演を経て、日々は少しずつ進んでいくけれど、
今も私はその早春の日と同じことを思っている。


生きるということは、圧倒的な力強さでほとばしる、希望そのものなのだと。












19歳から芝居を始めて30年目、私は、そんな風に解釈できるようになった。


だから、あなたの30年後も大丈夫だよと、
私から、


贈ってあげたい。



















劇団員ブログ 山岸諒子 R's Voyage

山岸諒子SITE RoseGarden